2015年3月3日火曜日

求められるのは表現力-相手の「読解力」に失望しない



ブログを書いていて、たびたび文章の書き方に悩まされることがあります。

読んでいる相手がわからないと、どう伝えたものかもわからず難しいですよね。画面の向こう側にいる、姿が見えない相手に誤解を与えないように配慮して言葉を選ぶという作業はなかなかに骨が折れます。




ネットを介して公にしている以上、誰かがその文章を目にするわけです。
書き手当人にそのつもりは無くても、時として見知らぬ誰かに多大な影響を与えているかもしれません。


だから自分の書いた物に責任を持てという主旨のことを言いたいわけではありません。それはずっと以前から言われ続けていることですし、表現したものへの責任とは、ネットでも他の媒体でも変わらずそこにあるものです。



私が、問題視、というか今後自分がもっと注目すべきでないかと思うのは、



「相手に伝えたいことが伝わらない」

そんな場合があること、もっと悪いのは

「相手に伝えたかったことと違う解釈をさせてしまう」ことです。



自分が本当に伝えたいことを理解してもらうには、読み手が自分の分身でもない限り不可能なことかもしれません。
けれど、書き手の意図しない解釈を読み手にさせてしまうことは、時として互いの、或いは第三者の不利益を生じることだってあり得ます。

そうなってしまっては、再度相手に理解しなおしてもらうことは難しくなってしまいます。


自分の言葉が正しい意味を成さず空回りしてしまうのは寂しいですよね。



それでも言葉を発している方は、いつだって相手任せになってしまうのです。

その言葉の意味をどう解釈するかは当然ながら読み手次第ですし、読み手の知識や経験、感性がその解釈に影響を与えます。


であれば書き手は可能な限り、万人に理解されるよう単純な言葉を選び、想像を巡らせ知恵を絞って文字を綴らねばいけなくなってしまう。


けれど、執筆によって生活の糧を得るプロでもない限り、ただの一般人が趣味の範囲で書く物をそこまでして精査する意味があるのでしょうか。

答えはイエスです。ただし、「万人に理解される」必要は決してありません。


伝えたい人に 伝えたいことが 伝われば良い。


明確にすべきは「誰に」「何を」「なぜ」伝えたいのか、だろうと思います。

書き手である自分が、それを確かな物にすれば、自然と言葉は紡がれて、伝えたい対象にもより明解に伝わるようになるはずです。


友達に今日のあった面白い出来事を共有して欲しい、

同じ趣味をもつ人に自分の価値観に共感して欲しい、

自分の達成したい目的のために、それを理解してくれる人に協力して欲しい。

何でもいい、伝えたい対象が明らかになれば、その対象に則した表現、言葉選びをするようになります。



それでも伝わらないことは当然ありますが、
伝わらないことを相手のせいにしてはなりません。

自分が書き出したその文字列から意図を汲んでもらえないのは、前述したように相手の知識や経験、感性に則っていないからで、それは必ずしも相手の落ち度ではないからです。


相手の読解力を疑う前にまず自分自身の読解力を持って自分自身の表現力を疑うべき、そうありたいと思います。




それがなかなか、というか難しいんですけど(笑´∀`)


今回の投稿もそうですが、私は誰にともなく宛てた手紙のように、一人語りの文章をよく書きます。


自分の感性が人に受け入れてもらえるはずがないと、驕っているからです。


それでも書きたいのは、やっぱり誰かに受け入れてもらいたいからで。


書く以上は読めるものじゃないといけませんよね(笑´∀`)

これまでつらつらと書いてきたようなことを、これからも肝に銘じていきたいと思っています。











ところで…
幸いなことに、私を構成するものを受け入れ、理解して下さる方に少ないながらも巡り会えています。


そんな方々に、ありがとうとお伝えしたいです。

どうかこれからも、おつき合い下さい。

2 件のコメント:

  1. 言葉を正確に伝えることの重要さを、理解されている方は多くはないと思います。でも、貴女の書く文章は実に的確でよく伝わってきます。

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    1. まさにそうですね(*^_^*)「伝える」ことが重要です。
      けれど伝わったことを(読者からのコメントなどで直接)確認する機会は少なく、日々手探りで文字を綴るばかりです。

      ありがたいお言葉です。稚拙な文章ですが、どうぞこれからも覗いて下さいね。

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