2015年2月1日日曜日

わざわざ貶しあって、なんか楽しいの?

人には感情がある。

ひとつの事象に対して、ある人は喜び、ある人は悲しみ、憂い、怒る。

人の数だけ、物事の捉え方は違うのだ。


会社や、家庭、地域など自分の属するコミュニティで、何かをしたい、その為の理解を得たいとき。

人には色んな捉え方があるから、自分の意思を通したい場合には、動かしたい相手の立場を理解することが必要だ。

「そんなの当たり前だ」と、

そう思いますか?


では、もし、そのことについて理解を得られず批判、非難、最悪の場合攻撃を受けたとき。


冷静であれますか?



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感情、思想を通して論争することの必要性とは何か。

最近、それを考えます。

自分と意見の違う人間と対峙したとき、感情的になって、相手を論破し、結果的には屈服させ、服従させる。

それが目的になってしまったりは、しませんか。

自分の考えを受けれ入れて、同調してほしいからこそ働きかけているのに。

あるいは自分からではなく、相手からそういったアプローチを受けるかもしれません。

相手の考えに同意できなかったとき、自分と相手が同一の意見ではないことを、相手を感情的にさせずに理解してもらうことが、できますか?

理論的に、事実や統計に基づいた前提のある討論ならまだ簡単な話かもしれません。

けれど例えば、親子や夫婦などの親しい関係や、上司・部下、年長・年少などの物理的、社会的立場の差が存在する場合、

その話の本質よりも、相手との関係性で物事を判断したりはしませんか?

そんなことを延々と考えています。

私は、家族や恋人、上司に対して冷静であれないから。


反対意見にあったとき、悲しくなったり、怒ったり、どうでもよくなったり、します。

自分を理解してもらえないことへの焦燥感、苛立ち、孤独を感じます。

そして最後には虚無感に襲われて、傷つく。

けれど本当は、自分自身がその痛みを覚えたとき、相手にも同様の心の動きが存在することを忘れてはならないんです。

むしろ積極的に思い出すべきで。


自分が相手に働きかけることで、自分が望む相手の姿を得られないことに憤るのはとても身勝手なことだと思います。

けれど、「相手に拒否された、攻撃された」と思ってしまうと途端に感情的になってしまう。

そして相手にも感情があることを忘れ、力でねじ伏せることに目的が変わってしまうのです。


ひとは自らの知識、経験からしか思考できません。

自身が受け入れがたいと思う事柄に遭遇したとき、守りに入るのは自然なことでしょう。

それを否定してはならない。

批判されて悲しい、腹立たしい、憎い。それは相手にとっても同じこと。

否定されたからといって、同じように相手の感情を否定していては負の結果しか生まれません。

互いに確固たる信頼関係が築けていないのであればなおのこと、相手を認めなければならない。

相手の考えに納得できなければ、なにも無理にそれを理解し受け入れる必要はありません。

けれど、認めねばならない。

そうでなければ、自分も認められなくなってしまいます。


では、どうすれば拒否する相手に自分の考えを認めてもらうことができるでしょうか。

人が変わるとき、それは受動的な姿勢から能動的な姿勢に変化したときであると思います。

きっかけは何でもいい。

「どうしてそれが良いと思うの?」と疑問をもたせること、

「あなたの力になりたい」と魅力を感じさせること、

「同調すれば得だ」と利益を匂わせること、

「そちらの方がより安全だ」と安心を与えること。

何でもいい。興味をもち、相手に最初の一歩を踏み出してもらう。そこからが本当の理解の始まりになると思うのです。



極論を言えば、自分が相手にできることなど何もありません。

相手の思考、思想、価値観は永久に相手だけのものであり、自分の手には入らないから。

できることは、自分が正しいと思うことをただこなしていくだけ。

相手がその姿をどう受け取り、判断し、行動する(あるいはしない)のかは、全てが相手次第になります。

利害が一致すること、

安全が保証されること、

単純に興味を抱くこと。

それが行動の理由になります。


それは自らがそうであったように、自分の歴史を振り替えれば、積み重ねてきた思考の変遷だと気付くはずです。


無用の争いを避けるため、あるいは、互いに失望してしまわないように。

相手を認め、静かに自らが正しいと思うことをこなす。


それができれば、理想だなと思います。

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