「道徳」や「倫理」の授業があったように、社会生活での個々の在り方を学問として、教養として得ることができるはずだと思います。
学校を卒業してしまうと、勉強の仕方を忘れてしまうんだろうか。
社会で出て多くの困難に出会ったとき、迷い、戸惑ってしまうのは、単に「経験不足」という言葉で済まされる話ではないんじゃないだろうか。
諸々の問題に直面したとき、私たちは私たち自身の経験から答えを出せなくても、先人が遺したものから「最適解」を選ぶことができるはず。
世の中に溢れる悩みや苦しみというのは合理的でもなんでもなくて、そこに感情があるから「最適解」を見いだせずにいたり、あるいはあえて選ぶことができずにいる。
「こうしたい」「こうありたい」の前に「どうするべきか」「どうあるべきか」が欠落していて、それはきっと教養として「生き方」を学ぶことが決定的に不足しているせいだろう。
歴史的文化的に積み重ねてきたはずの多くの人々の知識や経験、智慧をその記録から読み取り、咀嚼して自分のものにできたなら、きっともっと人生は楽になると思う。
本屋に数多く並ぶ啓発書のなかで、ほんとうに私の人生を啓いてくれるものはどれだろう。
著者の考え方をただ踏襲するものでなく、その答えに至る公式の導き出し方や、セオリーに沿った合理性のある「要素」として見極め、学び、習得することができたなら、そのとき本来の「啓発書」としての役割を果たしたことになるんじゃないだろうか。
最適解は啓発書通りに行動する(公式に当てはめる)ことかもしれないが、応用するためにはその公式の本質を理解していなければならない。
指針を見つけられないと人生に迷い続ける。
歴史や文化にみられる多くの人々の「生き方」を学ぶことができなければ、自らの新しい答えを導き出すのはとても難しい。
つまり何が言いたいかってーと、Masamiさんは無教養だということです(´・ω・`)勉強が足りねえ!
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