昨夜、無事に福岡に帰って参りました。
今日やってたことって言ったら…
爆睡かな(*´ω`)びっっっくりするくらい寝てました。
さて今日は5・6日めの行程です。
例によって使用した道の記憶があいまいです。ナビが8年前の購入当時のまま更新されてないのでなかなかに冒険でした。
長岡から北上して新潟に入り、峠を越えて郡山へ向かいました。
んー。新潟っていいところですね、資源も産業も豊かで、上手いこと自然を利用して人々が生活を営んでいるっていう印象でした。
ここで買った米菓は最終日まで旅のお供になりました。安いしうまい(*´ω`)mgmgmgmgmg
福島に入って猪苗代湖を超えてからは景色が変わりましたね。
一貫して「何も無いな」って印象。
そう言うと誤解を招く表現かもしれませんがちゃんとお店や住宅もあれば栄えた場所もあります。
新潟側から入ってきたせいか、土地の豊かさや産業の賑わいみたいなのが感じられなくて、落差やべーな。っていうか。
被災前の福島を知りませんので、現時点で私が抱いた感想です。。
でもいわゆる「宿場町」が道中にありまして。
昔からの街道沿いですね、そういった小さな集落にそれぞれ新しく綺麗な施設が(お土産物屋さんとか)設置されていて、人々も溢れて、そんななかを宿場町から宿場町へと走り抜けるのはとても楽しかったです。
あと飯がうまい。
魚はやっぱりうまい。被災後は徐々に水揚げ可能魚種が回復していっているそうで(現在72種/前150種)、こんなうまいもの食べさせてくれるなんてもう関係各位には感謝しかないです。
みんなこんなにがんばっている。
【震災から5年】「漁業」 試験操業拡大進む 原発半径10~20キロ 海域追加も視野 | 東日本大震災 | 福島民報
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2016/02/post_13327.html
「5年経って、みんな震災のことを忘れつつある」なんて声がありますけれど、それはそれとして仕方のないことだと思います。
当事者はともかくとして、部外者っていうのはいつでもただのギャラリーでしかないです。自分たちの生活が第一ですから、それは時が経てば経つほど忘れられていくものでしょう。
じゃあどうしたらいいの、って、憶えている人が忘れずにいるほかないんじゃないでしょうか。
自分は自分として、忘れない気持ちを持っていればいいんじゃないでしょうか。
たまに思い出して、やれることをやればいいんじゃないでしょうか。
だってそれしかねーべ。
今回の熊本大分地震を受けて福島行きを決めましたけれど(このへんの動機については割愛)
熊本も大分もよく知っている街だし
神戸も新潟(は今回たまたまでしたが)も自分の足で行って見ました。
それから福島。
そんで思った感想ってのがさ、「最後は自分たちで何とかせんといかん」ってことでしたよ。
受けたダメージから回復して、失ったものを取り戻すまでってすごく時間がかかるんだなって。
失ったものって、財産とか産業とかそういうものですけど、全部ひっくるめて「時間」なんですよ。
自分たちは復興のために日夜がんばる。そうこうしてる間に社会はめまぐるしく変わっていくわけです。
そこから置いて行かれる、あるいは「いつまで経っても『被災地』扱い」。ってどうなんでしょうね。
でもそこに住む人々っていうのは、昨日まで我々と同じようにいつもの日常を過ごしていたわけです。
その日常を取り戻すのって、最後は自分たちの力でしか無いんですよね。
「こら大変ばい」
って思った。
もう少し時間があったら仙台とか行ってみたかったです。(この頃は旅程に余裕が無いと思ってました。)
長くなってしまった。
福島市で一泊した翌日は相馬双葉周辺をうろうろしたのち、高速道路で水戸まで移動、その後は都市部を避けて一般道に下り、行きついた埼玉県の友人宅で一泊させてもらいました。
お父上のお手製親子丼にお味噌汁とトマトときゅうり…美味しくて美味しくて暖かくて…一宿一飯の恩義、忘れません。
さて、折り返しに入りました。
帰るまでが遠足です。旅は続く。
ご無事のお帰りとのことで、ホッとしております(^^)
返信削除福島などの被災地域は一時的な助けはたとえ必要であろうとも、いずれは自立しなくてはならないという点は同感です。 まあ自立してもたまに震災を思い返して温かく見守りたいなと思っています。
このあたりは人と同じかな(^o^)v
頭ではわかっていても、本当に理解することは難しいのだなと実感させられる旅でした。
返信削除うーん。この辺のことは、やっぱり言葉にするのは難しいですね(´・ω・`)
でも同じように、ときどき思い返していきたいと思います。