いるものといらないものの区別がつかない状況にいるとき、自分の判断力が不完全であると気付いて決定を見送る勇気を持とう。
メディアリテラシーの話。
「ネットで見た」
「テレビで言ってた」
「新聞・雑誌に書いてた」
物事に興味を抱く発端として、このようなメディアがしばしば登場してきます。
(他方、「人に聞いた」「日常で気付いた」場合もありますが、今回はメディアによる情報についてです)
これらの情報について、日常的に疑いを持つことをしましょう。
疑い、と言うと大袈裟かもかも知れません。あるいは「疑問をもつ」、「興味をもつ」と言い換えることで受け入れやすくなるでしょうか。
ネットを介し、情報発信が容易になった現代といえど、往々にして私たちは情報を受け取る側の人間です。
ちまたに溢れかえる情報のなかで信用に値するものがどれだけあって、どれだけ的確に拾い上げることができているでしょうか。
あらゆるメディアには制限があります。
テレビであれば放送時間、新聞・雑誌であれば字数・ページ数など、CMや広告に割く時間や紙面などよりよっぽど情報量が限られているのです。
メディアは常にメディアの都合によってのみ、情報を与えてきます。
与えられるまま信じ込み、本質を理解せずに是非を判断することによってどんな弊害を生ずるのか。私たちはそのことについて常に考えながら、あらゆる情報に接していかねばなりません。
一次ソースを参照し、
言葉の定義を正しく理解して、
発生した背景を読み解きながらその内容をよく咀嚼して…、
って毎回毎回そげんかこつできっかちゃー!!/(^o^)\
(訳:そんなこと出来ません)
できなくていいし、やらなくて構いません。
盲目的に信じ込むことをやめ、疑う気持ちを失わずにいればいい。
その中で、興味を持って「知りたい」という欲求に駆られるものがあれば、上記したようにそれを追求していけばいい。
「知る」ことができたら、「理解」できることが徐々に増えていきます。
多角的に背景を読み取り、
情報の送り手の言葉を正しく解釈し、
その情報の信憑性について判断できるようになれば、
自分にとって「本当の意味で」必要か不要か、己の責任において取捨選択することができるようになるはずです。
冒頭で「区別がつかなければ、判断を見送る勇気を持とう」と書きました。
情報過多であるこの社会のなかで、その真贋(あるいは自分にとって有益であるか否か)を見極めるのは最初はとても難しい。
けれど、判断するための材料が充分で無いのなら、その段階で評価してしまうことは後の選択肢を狭める結果を招きます。
メディアから得た不十分な情報を補うのは、人の意見だったり自分の感情(好きか嫌いか)です。
仮にその結果が良くないものであったとき、その責任を取るのは発信したメディアではなく、それを受け入れ「判断」した本人に他なりません。
判断に足る材料が確保できないのであれば、与えられた情報のみで安易に決めてしまうべきでは無いのです。
(それでも判断しなければならないときは?それはまたの機会に)
自分に本当に必要な情報を得るためには、与えられるままでなく、日常的に情報に向き合い、知識と照らし合わせ、取捨選択をしていくことが必要です。
積み重ねられた情報は知恵となり、また新たな情報の判断材料となります。
世の中に溢れる数多の文字、映像、音声は、料理で言うなら食材です。
食材をより美味しく、楽しく、満足できる料理に仕上げるために、良い素材を選び、調理できるスキルを磨いていきましょう。
(´。`)ふうふう。
いっぱい書いたぞ。
無駄を省いてわかりやすい文章にできなくてごめんなさい(´・ω・`)
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