2015年2月15日日曜日

ウイルスに感染してるからって、何なの?馬鹿なの?死ぬの?

クソみたいなタイトルでこんにちは!



ハーイ!私、HTLV-Ⅰ(ヒトT細胞白血病ウイルス)のキャリアでーす!

今日はこのウイルスについての記事だよ!




HTLV-Ⅰのキャリアは日本に120万人くらいいて、そのウイルスを要因としたATLと呼ばれる成人T細胞白血病には5%程度の発症危険率があるんだって!

発症までの潜伏期間は40年とも60年とも言われているよ!


開きありすぎやろ!ふざけんな!


って思うくらい、発症の条件やそのメカニズムがよく判ってないんだ!





そして私の場合、23歳で結婚した当時の旦那さんが感染源!

夫婦なんだもの、ふたりの子供が欲しいよね?


結局子供には恵まれなかったけど、めでたくヒトT細胞白血病ウイルスに感染したよ!





事実として、あったことをひとつ、書いておくよ。


私は彼と結婚する前、互いの性病検査を提案したんだ。互いに初めての人ではなかったからね。

そしたら彼はひどくがっかりした様子で、


「Masamiは僕を信じないの?僕はMasamiを信じてるよ。だってお互い、身に憶えがないだろう」
と言ったんだ。


これを読んでくれている人には、すぐわかるよね。彼の言葉は全く理論的ではないし、真に相手を尊重しているとは言い難い。

けれど年若い私には、彼の言葉は重かったんだ。彼の論理が破綻していることは明らかだったけど、それ以上に彼が嫌がることは強制できなかった。




その結果がこれだ。




彼の名誉の為に言わせて欲しいことがある。

彼は確かにHTLV-Ⅰのキャリアで、私の感染は彼によってもたらされたものだ。
けど、彼の場合は垂直感染、つまりお母さんからの母子感染なんだよ。

そしてこのウイルスが発見されたのは1980年、彼のお母さんが彼を産んだ1972年には、まだ認識されていなかったんだ。


身に憶えがないのは当然だよね。ただ知らなかっただけなんだもの。


私がウイルスに感染したのは、誰にも責任のないことだと、これでわかるね。
さて、ウイルスの話に戻るよ。




HTLV-Ⅰは上記にあるように、潜伏期間がとても長いね。
成人してからの感染なら、発症前に寿命が来るね!(笑´∀`)

けれど私にとって問題はそこじゃないんだ。


私が発症リスクを持つキャリアだってことが重要なんだよ。

この事実が判明したことによって、私の全ての判断基準がキャリアとしてどうあるべきか、どうありたいか、に変わってしまった。

そして得た結論は、子供を作らないことだ。


これに関しては実はまだ感情的に揺れているんだけど。

だって、幼い頃からの夢だったんだ。自分の両親が築いたように、幸せな家族を、家庭を、自分も築くことが。それが私の夢であり、希望だったんだよ。



私がするべきことは、私の夢と希望を諦めることなんだ。



この話を人にすると、なんだか妙に励まされることが多いんだけど。理解を伴わない同情なんていらないんだ。

よく言われるのは、「結婚も子供も諦めるなんてもったいない、病気になって死ぬリスクなんて誰でも持っているんだから」ってことかな。


同情するなら金をくれ!(by家なき子)


いやジョークだよ(笑´∀`)半分マジだけどね!(HAHAHAHA)


言われることは確かにそうなんだけど、でもキャリアとして生きる以上、変えられない現実としてリスクを背負っているんだ。

そして私が怖いのは、自分が病気になって死ぬことじゃない。


子供に感染させること

これが第一だ。

運良く垂直感染させず子をもうけたとしよう。
でも40年後、仮に私が病に倒れたらなら。
そのころには大人になって幸せな家庭を築くべき子供が、自分の老いた母親の病気のために人生を奪われることが怖いんだよ。



そんな家庭はごまんとある、とそう思うかい?それは結果論だろう。
リスクがあることを承知して望んだ結果では決して無いはずだ。



そしてそのリスクを私は抱えているんだよ。



HTLV-Ⅰの感染力は弱い。
潜伏期間もとても長いし、生涯発症しない場合がほとんどだ。


それでもこのウイルスは人を殺すんだ。


私自身の無責任さによって我が子を殺しかねないというリスクには、耐えられない。






長々とここまで書いてきたけれど、私は私の人生について、決して悲観的ではないよ!

人類の技術は日々進歩しているし、死にたくても簡単には死ねないほど医学は発達してる。

何より私に希望を与えてくれる人々がいるんだ。

彼らと接していると、私の夢も捨てたもんじゃないって思うね!



まぁ問題なのは、彼らが既婚者で私の付け入る隙がないってことかな!(HAHAHAHA)


くそっ…くそっ…。゚(゚´Д`゚)゚。あと15年早く産まれていれば、全身全霊で口説き落としたのに…!

なんてね、冗談だよ!(真顔)




彼らというのは、「出会いの話2,3」で書いたふたりのことだね。
そう、彼らとの出会いは、私がウイルスに感染しない限りあり得なかったことなんだ。

その点においてはウイルスに感染させてくれた元旦那さんに深く感謝したいと思う。
彼自身もまた、素敵な人だった。




私の、ウイルスの話はここで一旦おしまいだ。

まとまらないまま、思うままに書いてしまったために、とても読みにくかっただろう。
それでもここまで我慢して読んでくれた人に、ありがとうと伝えたい。


正直、読者を想うなら記事を何分割かにして書くべきだったと思うね!



この記事もいつしか書き直すことがあるかもしれない。

その時は今よりも希望と夢に満ちて、説得力のある文章に直したいものだ!

2015年2月13日金曜日

若くあれ

「仕事に学歴とかそんなの関係ない。

20代の今、その若さがブランドだ!

チャレンジできることが、可能性があることが強みなんだから!」





ある日の接待の席でのこと。


取引先の43歳の営業マンさんが、下請けのいち従業員である年少の私たち(特に私の後輩くんにだろう)に向けて最後に言って下さった言葉。


お酒の席だったけれど、話を隣で聞いていて、とても思慮深く、強く、熱い人だという印象を受けた。

あぁ、こんな人が先輩だったなら、良い人材が育つだろう。と思わせるような。



冒頭で書いたその人の言葉は、そんな風に思わせる思い遣りのある暖かさが内包されていた。



―――――――――



若さって、まぶしい。


目が眩んで涙が浮かぶほど、とってもまぶしい。





その営業の方にどんな想いがあって、私達に冒頭の言葉をかけてくれたのか、それはわからないけれど。

私自信も「若さ」は価値あるものだと思うから、共感できる言葉だった。







--うん。



共感はできる。できるけどひとつ、モノ申したい。


それ言うてるアナタも十分若くて眩しいわ!…と(笑´∀`)







若さは年齢じゃない。


いや、事実として埋められない時間の差は確かにあるけど、それは相対的な評価やろ。

多分その方も自分の年齢なんてどうでもいいんだろうし、ただ私達にわかりやすくエールを送ってくれたんだろうと思う。

それが伝わるから、めっちゃありがたい言葉やった。





でもでも。

そんな若々しくて格好イイ、社会の先輩に「20代が華!」と言われても、私が男だったならともかく、全然説得力ないねん。(ヒドイ!!)

それを言うてる43歳営業マンが、輝いて眩しくて、私には直視できんのやわ!






若い人はいくつになっても若いし、老けてる人は10代だろうが20代だろうが老けてる。


全身から醸し出す雰囲気が、その人を物語ってる。




若々しい人と、そうでない人。その違いって、何なんだろう。


信念とか、矜持とか、そういうものに対する姿勢とかなのかな。





言うて私も27やし、年上のお兄様お姉様方に叱られるかもしれませんが。


私も無駄に年を取ったと思ってしまうことはある。

ついそれを口にしてしまうこともある。



「(年下を指して)若いなぁ~!」とか

「あの頃は良かったぁ」とか言ってしまうと、

自分のことだけど、すぐに思いなおして



うるせえだまれわかぞうがヘ(^o^)/しばくぞ

ってなる。(セルフ突っ込み)





いつまでも子供でいることは許されんが、だからといって無闇に年食った気になるなよ、と。

自分の歩んできた年数にばかり目がいって、今の自分をないがしろにするのはよくない。






そうでしょ。

同じことを来年も、10年後も言うのかと。






何年後かの自分を想像して、



今ちゃんと生きろや!

若い他人を羨んでないで、今の自分を羨ましいと思えや!

自分の持ってるこだわりやらプライド握りしめて、それ磨いて輝やかせて、まぶしくなってみせろや!



と思う。





――――――――――――




いくつになっても「若く」あれ。



43歳の輝く営業マンさんを見て、そう思うのでした。


こういう上司ほしい

2015年2月12日木曜日

月の半分は休みたい

会社に行こうと改札から駅ホームに降りたら、馴染みの鈍色した車両じゃなくて目に刺さるような雪色の新型車両が止まってた。


一瞬自分が時間を間違えたかと心配になってキョロキョロ。

いつも長椅子にかけて眠ってるおいちゃんが今朝も変わらず船を漕いでいるのが目に入って、一安心。


**********



働くのに嫌気がさしてます。


もう、月の半分は休んでいたいです。

神経が細い性格のせいで、精神的な負担が大きいのです。



筋が通らないことは大嫌いだし、自分の範囲内の責任は全部とりたいし、やるなら中途半端じゃ許さない。



もう!マジ!無理!!



だいたいこの性格のせいで仕事に新婚生活奪われて離婚したっちゅーのに


普通無いやろ!

新妻が仕事に傾倒して家庭無茶苦茶になるとか!


いや、あるかも知らんけど

アホか!仕事優先して人生消費しとる場合やないぞ!





(´゚д゚`)ぬぁーくっそー



性格を変えることは無理なんで、生活を変える方向で行きます!



決めたわ!


月の半分働く程度で生きていけるくらいには稼いだる!

月の半分休む程度で生きていけるなら、質素な生活で十分や!贅沢は敵!



うわーんもう神経すり減らしたくないよぉー!(ノД`)・゜・。やだよぉ~!

2015年2月9日月曜日

出会いの話3 「やりたいこと」をやってみた結果

出会いの話シリーズさんかいめ。

今回の話は非常に悩む。

書き方に悩む。

この出会い話はちょっと手に余る。


そのくらい大きくて、それにたぶん、私のスキルが足りない。

それでも書けることを書きたい。




家族とも、友人とも、恋人とも、恩人とも違うベクトルで大切な出会いだったと思う。

その総てを超えてしまっているからだ。




たかだか27年間の人生で、何を語れるだろうか。

私はその人を崇敬しているんだろうと思う。

それ以外の言葉が見つからないほど、彼の人に貰ったものは大きかった。

ただただ静かに、深く、私という人間を受け入れてくれた。


HTLV-1の感染発覚を機にSNSで日記を書き始めた頃、私は自棄になっていたと思う。

誰も受け入れてくれなくたって構わない、けれど私は私自身の美学で生きるのだと声高に主張していた。

人に媚びないことで当然批判も受けたけれど、そんなことはどうでも良かった。

それくらい、他人の優しさを信用していなかったし、信用されてもいなかった。


そんな私の文章を読んで、コンタクトをとって下さった方がいた。

とある治療分野で最先端の、その更に先にいる方で、仮に「先生」と呼ばせてもらいたいと思う。


先生が私に興味を持って下さったのは、何故だろう。


説明できる理由はそのやりとりのなかで散見できるけれど、正直、それは些末な問題だと思える。



きっかけは何であれ、

「SNSで日記を書いてる人」

「27才のバツイチフリーター」

「ウイルスに感染してるキャリア」

そのどれでもない、一切のフィルターを通さずに、


「ひとりの人、ひとりの女性」として接してくれていたからだ。


ご自身のお仕事について、ひとつひとつ私の質問に答えて下さったり、趣味や嗜好の話をしてくれたり、

私の価値観の話、好きなこと、嫌いなこと、怖かったこと、罪の告白を静かに聞いてくれたりもして下さった。


知識も経験も学もない私を、丁寧に、尊重して扱って。

私が図々しく先生ご自身の世界の一端に触れることをも許して下さって。


自分を受け入れてくれる存在が本当にこの世にいるのかと、そう思って疑い怯えることすら深い心で赦してくれて。



そうして、自分自身を赦すことを教えてくれたのが先生でした。



こんな書き方をすれば、公開した記事を読んで苦笑いしている先生の顔も浮かぶのだけれど(笑´∀`)



今も時々、互いの近況を語るメールを続けている。

昼夜の無いお仕事のために、現在も多忙極まる生活を送られているはずだ。

それでも相手の身体を気遣うメールの一文に、常に変わらない優しい暖かさを覚える。



私も先生のように、誰かを助けられる人になりたいなぁ。


ほんとうは先生に恩返しできれば最高なんだけど、隙が無いんだなぁ。

きっとこの先もずっと、助けてもらうばかりなんでしょうけれど。




先生から卒業はできないだろうなぁ(笑´∀`)












もうちょっと、きちんと表現ができるようになったらそのうち書き直すかもしれません。(笑´∀`)

2015年2月5日木曜日

テンション上がった

朝の通勤時のこと。



いつも降りる駅にはホームから地上階に出るための長い階段がある。

階段横にはエスカレーターがあって、ラッシュ時、その乗口には利用者の長蛇の列ができる。

私は混雑するエスカレーターを使うのが嫌いで(混雑ぶりが危なくみえて怖いから)いつも階段を利用している。



長い階段をせっせと毎朝上るのだけど、今朝は私の前に、颯爽と階段を駆け上がる紳士の姿があった。


それがね…!

もうね…!


イケメン紳士でね!



いや、私は紳士の背後からたらたら階段を上っているわけだから、その顔を見ることは叶わないわけだけども。



背中イケメンやねん…!!



背が高くて、しっかりとした肩幅で。

背筋がピーンと伸びて、きれいに白髪を整えてあって。


長い足で漆黒のロングコートをたなびかせながら、軽快に階段を上がっていく紳士。


上り切ったところで息を上がらせているような気配もなく、スマートに改札を抜けていった。



ぶーーーー!!!(鼻血)





なんというか、私はこういう「全体的にイケメン(美女)の雰囲気」に弱い。


街中でそういう人を見かけたら、もう見えなくなるまで目で追ってしまう。





あぁ…!朝からいいもん見たわー!(*´゚д゚`*)=3ハッフーン




私もそういう、雰囲気美人になりたいです。




まずは階段を爽快に上りきる体力をつけることにします。




努力の方向間違ってるとか言うな。(´・ω・`)

そっとしておいてほしい

期待が辛い。

期待に沿えないことが辛い。



イレギュラーが許されないなら存在価値ないんだっつーの。

私が出来損ないだとわかった子供の頃に

何で始末してくれなかったんかな。

わかっとるわ、できるはずないことくらい。

ならばせめてと、できるだけ誰にも迷惑かけずに生きていきたいから

目の前のことを必死こいてやってるだけなんやって。



それだけじゃアカンのかと。

根暗だろうが 臆病者だろうが 偏屈だろうが

与えられた仕事をこなしてる。

それだけじゃアカンのか。



「いつか」のためにちゃんと自分に保険もかけてる。

行かせてもらった短大の奨学金も返してる。

そのために生活が苦しいから、ダブルワークしてる。

そんな人間、ごまんとおるわ。




でもアカンのやろ。

人間的に立派で 面白くて 空気が読めて 親切にしてやらんと満足せんのやろ。

いいよね、そういう人は。私だってそういう人素敵だと思うもん。

仕事やったらいくらでもしたるわ。





でもさ。

それが必要じゃないときくらい、そっとしておいてよ。

私が私の思うように振る舞ったってええやろ。



ごめんって

人と同じようにできなくてごめん


やっと、ちゃんと、少しだけ人並みに近付いたんやけ

ほっといてよ

2015年2月1日日曜日

わざわざ貶しあって、なんか楽しいの?

人には感情がある。

ひとつの事象に対して、ある人は喜び、ある人は悲しみ、憂い、怒る。

人の数だけ、物事の捉え方は違うのだ。


会社や、家庭、地域など自分の属するコミュニティで、何かをしたい、その為の理解を得たいとき。

人には色んな捉え方があるから、自分の意思を通したい場合には、動かしたい相手の立場を理解することが必要だ。

「そんなの当たり前だ」と、

そう思いますか?


では、もし、そのことについて理解を得られず批判、非難、最悪の場合攻撃を受けたとき。


冷静であれますか?



――――――――――

感情、思想を通して論争することの必要性とは何か。

最近、それを考えます。

自分と意見の違う人間と対峙したとき、感情的になって、相手を論破し、結果的には屈服させ、服従させる。

それが目的になってしまったりは、しませんか。

自分の考えを受けれ入れて、同調してほしいからこそ働きかけているのに。

あるいは自分からではなく、相手からそういったアプローチを受けるかもしれません。

相手の考えに同意できなかったとき、自分と相手が同一の意見ではないことを、相手を感情的にさせずに理解してもらうことが、できますか?

理論的に、事実や統計に基づいた前提のある討論ならまだ簡単な話かもしれません。

けれど例えば、親子や夫婦などの親しい関係や、上司・部下、年長・年少などの物理的、社会的立場の差が存在する場合、

その話の本質よりも、相手との関係性で物事を判断したりはしませんか?

そんなことを延々と考えています。

私は、家族や恋人、上司に対して冷静であれないから。


反対意見にあったとき、悲しくなったり、怒ったり、どうでもよくなったり、します。

自分を理解してもらえないことへの焦燥感、苛立ち、孤独を感じます。

そして最後には虚無感に襲われて、傷つく。

けれど本当は、自分自身がその痛みを覚えたとき、相手にも同様の心の動きが存在することを忘れてはならないんです。

むしろ積極的に思い出すべきで。


自分が相手に働きかけることで、自分が望む相手の姿を得られないことに憤るのはとても身勝手なことだと思います。

けれど、「相手に拒否された、攻撃された」と思ってしまうと途端に感情的になってしまう。

そして相手にも感情があることを忘れ、力でねじ伏せることに目的が変わってしまうのです。


ひとは自らの知識、経験からしか思考できません。

自身が受け入れがたいと思う事柄に遭遇したとき、守りに入るのは自然なことでしょう。

それを否定してはならない。

批判されて悲しい、腹立たしい、憎い。それは相手にとっても同じこと。

否定されたからといって、同じように相手の感情を否定していては負の結果しか生まれません。

互いに確固たる信頼関係が築けていないのであればなおのこと、相手を認めなければならない。

相手の考えに納得できなければ、なにも無理にそれを理解し受け入れる必要はありません。

けれど、認めねばならない。

そうでなければ、自分も認められなくなってしまいます。


では、どうすれば拒否する相手に自分の考えを認めてもらうことができるでしょうか。

人が変わるとき、それは受動的な姿勢から能動的な姿勢に変化したときであると思います。

きっかけは何でもいい。

「どうしてそれが良いと思うの?」と疑問をもたせること、

「あなたの力になりたい」と魅力を感じさせること、

「同調すれば得だ」と利益を匂わせること、

「そちらの方がより安全だ」と安心を与えること。

何でもいい。興味をもち、相手に最初の一歩を踏み出してもらう。そこからが本当の理解の始まりになると思うのです。



極論を言えば、自分が相手にできることなど何もありません。

相手の思考、思想、価値観は永久に相手だけのものであり、自分の手には入らないから。

できることは、自分が正しいと思うことをただこなしていくだけ。

相手がその姿をどう受け取り、判断し、行動する(あるいはしない)のかは、全てが相手次第になります。

利害が一致すること、

安全が保証されること、

単純に興味を抱くこと。

それが行動の理由になります。


それは自らがそうであったように、自分の歴史を振り替えれば、積み重ねてきた思考の変遷だと気付くはずです。


無用の争いを避けるため、あるいは、互いに失望してしまわないように。

相手を認め、静かに自らが正しいと思うことをこなす。


それができれば、理想だなと思います。